日本の百科事典
唐津城(からつじょう)は、佐賀県唐津市東城内にあった日本の城である。別名は、舞鶴城(まいづるじょう)。
唐津市街の北部に位置し、松浦川が唐津湾に注ぐ河口の左岸、満島山に位置する。唐津湾に突き出た満島山上に本丸が配され、その西側に二の丸、三の丸が配された連郭式の平山城である。北面は唐津湾に面するため、海城ともいわれ[1]、萩城とともに現在も直接海に聳える石垣が見られる。松浦川の右岸には虹の松原(国の特別名勝)が広がり、城から左右に広がる砂浜が鶴が翼を広げたように見えることから舞鶴城とも呼ばれる[2]。
江戸時代初期の慶長7年(1602年)から慶長13年(1608年)にかけて築城され、江戸時代を通じて唐津藩の藩庁となった。
廃城後、本丸は舞鶴公園となり、二の丸御殿跡に早稲田佐賀中学校・高等学校があり、その他の二の丸・三の丸跡は市街化している。現存する遺構としては石垣・堀がある。1966年(昭和41年)10月に天守台に慶長様式の天守(模擬天守)が建てられた[2]。このほか櫓や門が建てられ、石垣・堀が復元されている。麓から舞鶴公園上段広場までは高低差が34mあるため、有料の斜行エレベーター(2016年4月現在100円)が備えられている。
島原城(しまばらじょう)は、長崎県島原市城内にあった日本の城。別名は「森岳城」や「高来城」。城跡は長崎県指定史跡に指定されている。
有明海に臨み、雲仙岳の麓に位置する。城郭の形式はほぼ長方形の連郭式平城で、高く頑丈な石垣が特徴である。本丸は周りを水堀で囲まれており、二の丸と廊下橋形式の木橋一本で繋がれている。橋を壊せば本丸を独立させることが出来るが、逆に袋の鼠状態になり、しかも廊下橋は防備上、矢玉が当たりにくくなるので、縄張の欠陥とも言える。同じ事例に、高松城の天守曲輪(本丸)がある。また、天守は破風を持たない独立式層塔型5重5階(初重の屋根を庇として4重5階とも)で最上階の廻縁高欄を後に戸板で囲ったため「唐造り」のようになっていた。
江戸時代は島原藩の政庁であり藩主の居所であった。成立当時の領主である松倉氏の知行は4万石であったが、総石垣で天守と櫓49棟を建て並べた。火山灰や溶岩流でなる地盤での普請工事は困難であったとされ、続く松倉勝家の代に領民の一揆を引き起こす一因となった。
明治以降は廃城処分となり建物などは撤去され、現在は本丸に天守・櫓・長塀が復興され、城跡公園となっている。
石垣と堀は江戸時代から残っている。堀では1950年代まで農家が栽培していたレンコンが根付いており、秋にレンコン掘り大会が開かれる[1]。
沖縄本島(おきなわほんとう)、または沖縄島(おきなわじま)は、沖縄県を構成する160の島の中で最大の島である[9] のはもちろん、本州など本土4島を除くと国後島に次ぎ日本で面積3位の島である[10](大きい順に、択捉島 - 国後島 - 沖縄本島)。また東シナ海と太平洋(フィリピン海)の間に位置する南西諸島においても最大の島である。離島を含まない沖縄本島だけの面積で、大阪府や鳥取県よりは狭いが、東京都区部や琵琶湖よりも広い。
沖縄県の政治、経済の中心となる島で、同県の41市町村の内、県庁所在地の那覇市を含む26の市町村がある。また、県の人口約145万人の内、およそ9割に当たる約129万人の人口を有している。
国土交通省は、北海道・本州・四国・九州・沖縄本島の5島を除く島を「離島」としている。但し、沖縄本島を含む5島に対して「本土」という語は用いていない。沖縄振興特別措置法によると、沖縄本島以外の島を「離島」とし、このうち一部を「指定離島」に指定する。指定離島には無人島も入るが、沖縄本島と架橋接続された島は、指定離島から外されている。一方、宮古島、石垣島と架橋接続された島は外されていない[11]。
沖縄では一般的に(漠然と)、沖縄県外(狭義の日本列島)を「内地」、「本土」や「本州」と呼ぶ場合がある。
また、沖縄方言と国頭方言のウチナー・ウチナーンチュ(ウチナンチュ)は、本来沖縄本島及びその出身者を指す言葉だが、明治期の沖縄県設置後に沖縄県全域及びその出身者を示す様になってきた。
熊本城(くまもとじょう)は、肥後国飽田郡熊本[1](現在の熊本県熊本市中央区)に築かれた安土桃山時代から江戸時代の日本の城。別名「銀杏城(ぎんなんじょう)」[2]。
加藤清正が中世城郭を取り込み改築した平山城で、加藤氏改易後は幕末まで熊本藩細川家の居城だった。明治時代には西南戦争の戦場となった。西南戦争の直前に大小天守や御殿など本丸の建築群が焼失したが[3] 宇土櫓を始めとする櫓・城門・塀が現存し、13棟(櫓11棟、門1棟、塀1棟)が国の重要文化財に指定されている。また、城跡は「熊本城跡」として国の特別史跡に指定されている。
熊本市北区植木町の中心から南に伸びる舌状台地(京町台地)の尖端、茶臼山丘陵一帯に築かれた平山城。現在の地名では中央区の本丸、二の丸、宮内、古城、古京町、千葉城町に当たる。
中世に千葉城、隈本城が築かれ、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて加藤清正がこれを取り込み、現在の本丸にあたる部分の築城を行った。 細川氏の時代になると城地の拡張と増築が盛んに行われ、西側に二の丸、三の丸が加わった。明治時代の初めまでは大半の建物が撤去されずに現存していたが、熊本鎮台が置かれた後に建物や石垣、曲輪の撤去や改変が行われ、西南戦争で一部の建物を残して天守を含む御殿や櫓など主要な建物を焼失した。現在は、宇土櫓や東竹之丸の櫓群が残る(建物が失われる経緯は、同項の歴史(明治時代以降)を参照のこと。)。1889年(明治22年)の熊本地震で石垣の一部が崩落し、改修された部分があるものの、ほぼ江戸期の姿をとどめ、城跡は特別史跡に指定されている(2012年時点で512,300.52平方メートル)。
天守は1960年に鉄筋コンクリートで外観復元され、内部は「熊本市立熊本博物館分館」となっている。2000年以降は門や櫓、御殿などが木造で復元された。
2016年4月の熊本地震の際に、多くの石垣が崩落したほか宇土櫓などの文化財建造物、大小天守などの復元建築が被災し[4]、修復が進められている(「歴史・沿革」参照)。
サクラの名所としても知られており、日本さくら名所100選に選定されている。
福岡市(ふくおかし)は、福岡県西部に位置する市。福岡県の県庁所在地であり、政令指定都市である。
近畿地方以西の西日本では2番目、東京23区を除いた全国の市でも横浜市、大阪市、名古屋市、札幌市に次ぐ5番目の人口(約162万人[1])を擁し、九州地方の行政・経済・交通の中心地として同地方最大の人口を有する。
博多湾に面するこの地域は古来から博多(はかた)として認識されており、大陸方面への玄関口として利用されてきた。中世に商人による自治都市が形成され、戦乱で度々焼き払われながらも、豊かな町人文化を育んだ。豊臣秀吉の手で復興されたのち、黒田氏が福岡城とその城下町を築いたことで、那珂川を境に西が城下町としての「福岡」、東が中世からの商人町・商業都市としての「博多」となった[2]。その後、江戸時代から明治時代初頭にかけて、福岡と博多は共存していたが、1876年に福岡と博多は1つの都市へと統合され「福博(ふくはく)」となり、その後、「福岡」と改称された[3]。
九州地方の行政・経済・交通の中心地であり同地方最大の人口を有し、西日本においても大阪市に次ぐ人口を擁する都市である。同市を中心として福岡都市圏を形成している。北九州市(北九州都市圏)とともに形成する北九州・福岡大都市圏は都市単位の経済規模において日本の四大都市圏に数えられる[3]。市内総生産は特別区部である東京23区を除けば、大阪市、横浜市、名古屋市に次いで国内4位であり、福岡市は三大都市圏に次ぐ高い経済力を持った都市である[4]。東京や大阪に本社を置く大企業が九州地方を統括する支店・支社が多数立地しており、典型的な支店経済都市である。札幌市、仙台市、広島市とともに地方中枢都市としての役割を担っている。また、14の大学や9の短期大学が立地する全国有数の「学生の街」であり、人口に占める学生の割合は政令指定都市の中では京都市に次ぐ第2位である[5]。
明治維新の近代初期は現在のように九州地方で最大の都市では無かった(都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位を参照)。当時、九州地方最大の都市は長崎市・鹿児島市であり、九州地方を統括する中央の出先機関は熊本市に置かれるなど、九州地方における福岡県および福岡市の重要性は低かった。1899年博多港開港、1911年九州帝国大学(現在の九州大学の前身)設置に端を発して発展が進み、徐々に九州地方の中枢として位置づけられるようになった。1910年代に熊本市の人口を抜き九州地方最大となる。1920年の人口統計では熊本県の人口の2倍を超えている。また、この時期から九州を統括する中央の出先機関は福岡市に移行している。1963年に、五市合併で北九州市が発足すると同市の人口が九州地方最大となり、北九州市が九州で初めて政令指定都市に指定された。その後、昭和後期の日本における炭鉱の相次ぐ閉山・第三次産業の急速な発達などの産業構造の転換と、政令市指定・山陽新幹線博多駅延伸などを経て、1979年に再び北九州市を抜いて、福岡市の人口が九州地方最大となった。2010年以降、福岡市は人口増加数、増加率とも政令市の中で最も高く[6]、現在もなお年間1万人を超えるペースで増加傾向にある。2015年には神戸市を抜き、全国でも5番目に人口が多い市となった[7]。2020年5月には、人口が160万人を突破した[8]。
玄界灘の壱岐や対馬をはさんで大韓民国(韓国)があり、同国南部の主要都市である釜山までは福岡市から直線距離で200km程度[9]である。また、中国の上海市までは同様に850km程度といずれも東京より近い。これらの事例のように、近隣諸国の主要都市がおおむね1,000km圏内に存在しているため、博多港、福岡空港から韓国や中国、台湾などのほか東南アジアの主要都市への国際航路が多く設定されており、これらの地域からの観光客が増加傾向にある。古来から朝鮮半島のある大陸との玄関口となっている福岡市は世界においても影響力を持つ都市として、日本の森記念財団が2019年に発表した「世界の都市総合力ランキング」では評価対象となった都市の中で世界42位、国内では東京・大阪に次ぐ3位に評価されている[10]。また、同財団が国内の都市の魅力や持続性を評価した「都市特性評価」では京都市に次いで国内2位である[11]。グローバル創業・雇用創出特区として、北九州市とともに国家戦略特別区域に指定されている。また、福岡市で開催される国際会議数は、東京に次いで国内2位であり、北九州市とともに国際会議観光都市にも指定されている[4]。
福岡市の都心は、天神と博多の両極がある(それぞれ江戸時代の福岡と博多に相当する)。天神地区は福岡市役所と西鉄福岡(天神)駅・福岡市地下鉄天神駅のほか、多数の百貨店やファッションビルが集積する九州最大の繁華街である。博多には九州最大のターミナル駅である博多駅があり、多数の新幹線や特急列車が九州各都市を結んでいる。また福岡空港も地下鉄で数分と至近距離であるため、博多駅周辺は大企業の支社が集積するビジネス街となっている。天神と博多を隔てる那珂川の中州に形成された歓楽街は、中洲(なかす)として全国的に有名である[12]。中洲は西日本一の歓楽街とされ[12]、東京の新宿・歌舞伎町、札幌・すすきのと並んで、日本三大歓楽街の一つとされる[13]。天神・博多・中洲・長浜などで夜間に常設される屋台の数は日本一[14] で、屋台目当ての観光客も多い。1995年には大型複合商業施設キャナルシティ博多が中洲の東側に開業、2011年には九州新幹線博多延伸に伴い博多駅に複合商業施設JR博多シティ(アミュプラザ博多、博多阪急)、2016年にはKITTE博多(博多マルイ)が開業した。もともとビジネス街だった博多駅周辺の商業施設の集積が進んでおり、天神地区との商業地競争が激化している(「天神流通戦争」も参照)。福岡都心の地価は年々上昇傾向にあり、天神木村屋ビルで1㎡あたり620万円、博多駅東(博多駅筑紫口)が1㎡あたり388万円と東京の一等地と比べても見劣りしない価格であり、東京都中央区東銀座の平均地価を上回っている[4]。ただし、福岡空港が中心市街地と近接している関係で市内中心部には航空法上の高さ制限が設定されており、天神や博多駅周辺には超高層ビルがほとんど存在しない。天神・大名地区は高さ制限を緩和して民間のビルの建て替えを行う再開発計画「天神ビッグバン」が進行中である。
福岡市の主な副都心としては、西新と香椎が挙げられる。両者の周辺には高校や大学、専門学校が多数存在するほか、ウォーターフロント開発地区として、西新の北にはシーサイドももちが、香椎の西にはアイランドシティが隣接している。特にシーサイドももちには、福岡PayPayドーム・福岡市総合図書館・福岡市博物館・報道各社といった文化・エンターテインメント施設が集積している。天神や博多などの福岡都心は福岡空港に近く超高層ビルが建てられないが、福岡市内の高さ100m以上の建造物の殆どが(比較的高さ規制の緩い)この両副都心の近辺にある。この両副都心ほど大規模ではないが他に福岡市の副都心として挙げられる地域は、大橋や姪浜がある。
九州の北部。日本海(博多湾・今津湾・玄界灘)に面した半月型の福岡平野の大半の部分を市域とする。北は博多湾の北辺に位置する砂州である海の中道・陸繋島である志賀島、西は糸島半島の東部まで市域となっている。南・南西は脊振山地に含まれる山間部まで市域が伸びており、佐賀県に接している。ほかに有人島嶼として、博多湾上の能古島や市の西部で博多湾口付近の玄界灘上に浮かぶ玄界島、そのさらに西北部にある小呂島を市域に含んでいる。
福岡市から壱岐・対馬を挟んで向かい側に朝鮮半島がある。日本の人口100万人以上の主要都市としては韓国のソウル特別市、中国の上海市、台湾の台北市に最も近い都市で、直線距離では東京特別区から約880km、大阪市から約480km、広島市から約200km、韓国の釜山広域市から約200km、ソウル特別市から約540km、中国の上海市から約890km、台湾の台北市から約1280kmの位置にある。
市域の多くは福岡平野に含まれており、一部に小高い山なども存在するものの概ね平坦である。他の大都市と比べて平坦であるため、通勤や通学、買い物における自転車利用の利便性が高い。市域西部・西南部は脊振山地の一角を成しており、標高が高く起伏の大きい地形となっている。市街地の海岸部は大半が埋立地であり[15]、港湾・住宅などが建設されている。また、博多湾東部には人工島も建設されている(アイランドシティ)[16]。一方、西区の大部分や東区海の中道と島嶼部などには自然海岸も残っている。また、玄界島の北方約300mに黒瀬と呼ばれる幅200m程度の岩礁が発達している。黒瀬は、新生代第四紀に活動した福岡県唯一の火山島に分類され、玄武岩で構成されている。
市内を流れる河川としては、市域中心部を流れる那珂川・御笠川や市域東部を流れる多々良川、市域西部を流れる室見川などの二級河川はあるが、一級河川はない。従って自主水源に乏しくたびたび大規模な渇水(例:昭和53-54年福岡市渇水)に見舞われている。
長大河川はない一方で、前述のとおり平野周辺の山地から短い河川長とやや急な勾配で博多湾に流れ込む河川はおおむね市街地を経由しているため、集中豪雨があった場合に氾濫しやすく、それが福岡平野を形成したと見られるが、現代において都市治水上の課題となっている。
那覇市(なはし、沖縄語: ナーファ、ナファ[3])は、沖縄県の沖縄本島南部に位置する市。沖縄県の県庁所在地及び最大の都市であり、中核市、中枢中核都市に指定されている。
沖縄県の政治・経済・文化の中心であり、また県外や周辺離島とを結ぶ那覇空港や那覇港を擁することから沖縄県の玄関口としての役割も担っている。 都道府県庁所在地では、唯一JR線が通らない[注釈 1]。
面積は日本の全都道府県庁所在都市の中で最も小さく、人口密度は首都圏と近畿圏と政令市の行政区を除くと全国で最も高い。また、那覇空港が市域面積の8%以上を占め、そのなかには自衛隊を含む。この他在日米軍の施設や那覇港の民間用途の施設の分も考慮に入れると、実際の都市活動に使用できる面積は限られる。さらに、那覇空港の制限表面により、市街地の多くは超高層ビルや超高層マンションを建てることが出来ない[4]。おもろまちを中心とする那覇新都心をはじめとした航空規制の影響がない北部エリアや、再開発事業の一環として旧市街地の牧志・安里地区などに高層ビルが建ち始めている。
都市化に伴って周辺自治体のベッドタウン化が進み、那覇市を中心市とする那覇都市圏の人口は約78万人(都市雇用圏 - 2005年)となっている。なお、地方での人口減少が深刻な問題になっている今日においても那覇市及び那覇市の周辺自治体では人口増加が著しく、2015年12月現在の都市雇用圏人口は約86.1万人(10%流入人口※2010年の国勢調査の結果、北谷町から同都市圏への流入人口が沖縄市都市圏への流入人口を上回った為、都市圏域が北谷町まで広がった。)。さらに那覇市を中心とした沖縄本島中南部圏の人口は面積約482km2(政令指定都市の北九州市とほぼ同じ)に対し人口は約121.2万人(推計人口2021年2月1日現在。広島市とほぼ同じ)を超え、国内でも有数の人口集中地区である。
市の中心部は国場川(漫湖)、及び安里川に囲まれた平地地帯に広がり、那覇市、及び沖縄県の主要施設の多くがそこに立地している。近年では1987年に米軍の牧港住宅地区が全面返還されたことにより、那覇新都心として開発が進み、中心地に置かれていた企業本社などの一部が移転しており、新たな中心部となっている。
また、中心部周囲の丘陵地はほぼ全て市街化(主に住宅地)され、元々の地形の高低から立体的な都市景観を見せる。一時は琉球王国時代の首都でもあった首里地区は海抜100m程度の高台の上に位置し、場所によっては那覇市全域を見渡すことも可能である。
観光面では、市の中心部の国際通り、市東部の高台にある首里地区の首里城(琉球王国の王府。2000年12月に世界遺産・琉球王国のグスク及び関連遺産群として登録)が中心であったが、近年、前述の在日米軍住宅地の跡地が那覇新都心として開発が進んでおり、2004年12月に世界最大規模で国内では唯一の空港外大型免税店であるDFSギャラリア・沖縄がオープンした。東シナ海に面しているが、那覇空港や那覇港などの施設が海岸線のほとんどを占めているため、海水浴場は1991年に供用開始された波の上ビーチ(人工海浜)のみとなっている。名産品として壺屋焼や泡盛などがある。
2006年に中核市指定要件の1つである面積要件が撤廃された事を受け、本市は中核市移行を目指していた[5][6][7]。そして2012年10月19日に行われた閣議により、那覇市を中核市へ指定する政令を決定した[8][9][10] のち、2013年4月1日をもって全国で42番目の中核市に移行した[11]。
「那覇(なは)」の語源は、漁場を表す「なふぁ」からきている[12]。この由来は、那覇市のサイトにも、伊波普猷の唱えた説として紹介されている。なお、那覇を本来の表記(旧字体)で表すと外字にあたるため、那覇市では人名用漢字を使用している。本来、「那」は左側の2本の横線を縦線の右まで突き通し、「覇」は西の下部にある一本線がない形(襾)になる[13]。
沖縄本島南部の西海岸に位置し、東シナ海に面している。 市中央部がほぼ平坦で、周辺部に小高い丘陵地帯が取り巻くように展開し、市内を東から西に国場川や安里川が流れ、東シナ海に注いでいる。豊見城市との市境にある漫湖はラムサール条約に登録されている。
「鎖国」体制であった江戸時代には、国内唯一の江戸幕府公認の国際貿易港(対オランダ、対中国)・出島を持つ港町であった。このため、出島跡を初めとして、異国情緒に満ちた港町として有名である。歴史的経緯からカトリック教徒の数が比較的多いことでも知られており、特にカトリック教会は長崎県単独で一つの大司教区を形成している(日本の大司教区は長崎含め3つあり、東京大司教区は東京・千葉で、大阪大司教区は大阪・兵庫・和歌山で構成)。
また、実戦で使用された核兵器(原子爆弾)としては広島市に次ぐ世界史上2番目の、そして最後の被爆都市としても知られる。「近隣の核武装国による核攻撃を想定するのは、他国に誤解を与える」との信念の下で、全国自治体の中では唯一、国民保護計画案から、他国より核攻撃想定される事態の想定をあえて削除している(2007年5月11日 市長発言)。なお、長崎県は計画案の中で核攻撃への対処事項を記述している。
長崎半島および西彼杵半島を市域とする。諫早市、西海市、西彼杵郡時津町・長与町に隣接する。市の形状は全国的に見ても数少ない「すり鉢」状となっている。市の中心部は三方を山に囲まれており、女の都(めのと)・三原・本原・西山・片淵・小島(こしま)・稲佐(いなさ)・小江原(こえばる)・西町・滑石(なめし)など住宅地の多くは山の斜面を利用している。そのため「階段の街」「坂の街」として有名である。坂が多いため自転車に乗る人は少なく、他の都市でしばしば問題になる放置自転車等の問題は少ない。また、「自転車屋」を名乗りながらも原付バイクだけを扱う店も多い。長崎市内の小学校・中学校・高等学校は立地条件の関係上全ての学校で自転車通学が禁止されており、自転車置き場すら存在しないほどである。
市の中心部を流れる川には、北部から南下し長崎港へ注ぐ浦上川と、市の北東部から長崎港へ注ぐ中島川とがある。それぞれ川沿いに平地と埋立地があり、商業地や公共施設はそこに集中する。