日本の百科事典
京都市(きょうとし 地元発音)は、京都府南部に位置する市。京都府の府庁所在地で政令指定都市。
日本の市では8番目の人口を有する(都区部を除く)。市内には794年(延暦13年)の遷都から、1869年(明治2年)の東京奠都までの1000年以上にわたって日本の首都として平安京が置かれていたため、「古都」と呼ばれる。
市域は令制国でいうと山城国葛野郡・愛宕郡・紀伊郡の全域、山城国宇治郡・乙訓郡と丹波国桑田郡の一部、さらに山城国久世郡・綴喜郡にもくい込んでいる[* 1]。
京都府最大の都市であり、府の人口の56.7%を占める(2021年12月1日)。都道府県全体の人口の過半数を占める都市は、東京23区を一つの都市として考えない場合は全国で京都市のみである。都市圏としては、京都府・滋賀県などに広がる京都都市圏[1] および京滋の中核であるとともに、大阪市を中心とした京阪神都市圏(近畿大都市圏)の一角を担う。都市雇用圏の基準では、京都都市圏の人口は280万人で京都府より多く、東京都市圏、大阪都市圏、名古屋都市圏に次ぐ日本第4位の規模である[* 2]。
794年(延暦13年)に日本の首都になった平安京を基礎とする都市で、明治天皇が東京に行幸するまでの約1080年に渡って皇室および公家が集住したため「千年の都」との雅称で呼ばれる(首都に関する議論は「日本の首都」を参照)。平安時代、室町時代の室町幕府期には日本の政治が執り行われた唯一の中心地であり、鎌倉時代、室町時代の中の戦国時代、安土桃山時代、江戸時代の幕末期などにおいても、日本の政治の中心の一つとして大きな役割を果たした。
平安時代から江戸時代前期までは日本最大の都市であり、その市街地は「京中」、鎌倉時代以降は「洛中」と呼ばれ、都市としては「京」「京の都」「京都」と呼ばれた。江戸時代には三都(江戸・大坂・京)、明治期には三市(東京市・大阪市・京都市)、大正期以降は六大都市(東京市・横浜市・名古屋市・京都市・大阪市・神戸市)の各々の一角を占め、戦後には政令指定都市になった。このような中で都市生活者向けの商工業が発達し、特に国内流通が活発化した江戸時代には、全国に製品を出荷する工業都市となる一方、数々の技術者を各地の藩の要請に従って派遣した。その伝統は現在も伝統工芸として残るのみならず、京セラや島津製作所、オムロン、日本電産など先端技術を持つ企業をはじめ、任天堂やワコールなど業界トップクラスの本社が集まるなど、現代産業を支えている地域の一つである。
第二次世界大戦の戦災被害を一部のみ免れた神社仏閣、古い史跡、町並みが数多く存在し、宗教・貴族・武家・庶民などの様々な歴史的文化や祭りが国内外の観光客を惹き寄せる観光都市であり、「国際観光文化都市法」に基づく国際観光文化都市に指定されている。旧市街地を中心に建物の高さ規制や広告表示の制限がなされ、古い街並みが保全されている。さらに、旧帝国大学の京都大学をはじめとする多数の大学が集積し、国内外から学生や研究者が集まる日本有数の学生街・学園都市ともなっている[* 3]。
伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)は、京都市伏見区深草にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は単立神社となっている。
旧称は「稲荷神社」。稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする。全国に約3万社あるといわれる[1]稲荷神社の総本社である。初詣では近畿地方の社寺で最多の参拝者を集める(日本国内第4位〔2010年〕)[2]。現存する旧社家は大西家。
京都盆地東山三十六峰最南端の霊峰稲荷山の西麓に鎮座する稲荷信仰の御本社。その信仰は稲荷山の三つの峰を神そのものとして崇拝したことを源流とする[3]。初め農耕の神として祀られ、のちに殖産興業の性格が加わって衆庶の篤い信仰を受けた。神が稲荷山に降り立ったという縁起から、2月の初午の日は古来より多くの参拝者で賑わう。清少納言が自らの稲荷詣を『枕草子』に記すほか、『蜻蛉日記』『今昔物語集』など古典にもしばしば登場する[4]。平安時代、東寺(=教王護国寺)の造営にあたって鎮守社となるや、真言密教と結び付いてその信仰を拡大[5]、次第に神位を高めて『延喜式』名神大社に列し、天慶5年(942年)に正一位の極位を得た。この間、延喜8年(908年)に左大臣藤原時平が三箇社を修営(『年中行事秘抄』)、その後源頼朝や足利義教らが社殿の造営、修造に関わったが、応仁の乱にてすべて焼亡。乱後、社僧による勧進の下で再建が始まり、明応8年(1499年)に至って遷宮を迎えた[6]。近世まではこれら勧進僧たちが稲荷信仰の普及や稲荷講の結成に大きく関与した[7]という。
明治政府の神仏分離令によって、本願所[注 1]のほか境内の仏堂がすべて廃寺となる一方、崇敬者による鳥居の奉納や私的な「お塚」の建立が稲荷山中で顕著化し、現在の伏見稲荷大社を特徴づけるものとなった。稲荷祭の最終日に東寺の僧侶らが東門(慶賀門)の前に供物を並べ、還幸する下社の神輿に読経をあげる儀式があり、古くから続く両社寺の深い関係を今に伝えている[8]。
八坂神社(やさかじんじゃ)は、京都府京都市東山区祇園町北側にある神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする関連神社(約2,300社)の総本社であると主張している。通称として祇園さんや八坂さんとも呼ばれる。祇園祭(祇園会)の胴元としても知られる。
京都盆地東部、四条通の東端に鎮座する。境内東側にはしだれ桜で有名な円山公園が隣接していることもあって、地元の氏神(産土)としての信仰を集めるとともに観光地としても多くの人が訪れている。
正月三が日の初詣の参拝者数は近年では約100万人と京都府下では伏見稲荷大社に次ぐ2位となっている。また東西南北四方から人の出入りが可能なため、楼門が閉じられることはなく伏見稲荷大社と同じように夜間でも参拝することが出来る(防犯のため、監視カメラ設置。また、夜間でも有人の警備は行われている)。
古京都遺址(京都、宇治和大津市)[1](日语:古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)/こときょうとのぶんかざい(きょうとし、うじし、おおつし) KotoKyouto No Bunkazai (Kyoutoshi、Ujishi、ōtsushi) ?),又被称為古都京都的文化財[2],是指存在於日本京都府京都市、宇治市及滋賀縣大津市的寺院、神社、城堡等史蹟的總稱。此建築群在1994年被聯合國教科文組織登錄為世界遺產,成為日本第5個世界遺產項目。西元794年,日本皇室下詔遷都平安京。平安京位於今日的京都市,是一座模仿中國洛陽興建的都市。平安京在8世紀—19世紀中葉為日本的京城,並且是日本的政治、文化中樞。平安京的眾多建築物,諸如神社、寺院,見證了日本文化在這一段期間的發展,也為當時的日本藝術留下了紀錄,因此被登錄為世界遺產。
吉水神社、?水神社(よしみずじんじゃ)は、奈良県吉野郡吉野町にある神社。旧社格は村社。世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一つとなっている。「吉」の正確な表記は「」(「土」の下に「口」、つちよし)である[注釈 1]。
社伝では、白鳳年間に金峯山寺の僧坊・吉水院(きっすいいん)として役行者により建立されたと伝えられる。
文治元年(1185年)12月には源頼朝に追われた源義経、武蔵坊弁慶や静御前などが5日間吉水院に身を潜めている。
南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に潜幸した時、吉水院の宗信法印の援護を受けて吉水院に行宮を設け、一時居所とした。後醍醐天皇の崩御の後、後村上天皇が後醍醐天皇の像を作って吉水院に奉安している。
文禄3年(1594年)に豊臣秀吉が行った吉野の花見の際には吉水院はその本陣とされ、5日間滞在している。現在も残る名勝の庭園は、その際に秀吉自らが造ったものであるという。
明治時代に入ると神仏分離令と国家神道化の観点から天皇を仏式で供養することが問題視され、1871年(明治4年)5月に五条県が吉水院を神社に改めて「吉野神社」とする案を太政官政府に提出した。後醍醐天皇を祀る神社を別に作ることを計画していた[注釈 2]政府は五条県の案を却下したが、金峯山寺の廃止が迫る情勢となったことから、奈良県が神社への改組を働きかけ、1874年(明治7年)12月17日に吉水院は後醍醐天皇社の名で神社になることが太政官に承認された。
1875年(明治8年)2月25日、社名を吉水神社に改称し、併せて南朝方の忠臣であった楠木正成、吉水院宗信法印を配祀し、やがて村社に列している[1]。
現在、本殿には2001年(平成13年)に焼失した勝手神社の祭神が仮遷座されている。
境内からは「一目千本」と呼ばれる中千本と上千本の桜がよく見える。
大阪市(おおさかし)は、大阪府中部に位置する市。大阪府の府庁所在地であり、政令指定都市である。
西日本および近畿地方の首位都市であり、経済・文化・交通の中心都市。また、京都市や神戸市を含めた、世界有数の経済規模を誇る京阪神大都市圏の都市中枢を成す。市域は24の行政区からなる。市庁所在地は北区中之島(淀屋橋)。市域に多数の河川や堀を有し、歴史的にも港湾機能や河川交通が発達していたことから水都の異名を持つ。4世紀に都として難波宮が置かれて以降、およそ1700年に及ぶ歴史を有する。現在では、商業や国際観光などが盛んな[1]アジアにおける世界都市である。
大阪市の都市としての源流は弥生時代後期〜古墳時代に遡る。日本書紀によると、第15代応神天皇が行宮として難波大隅宮を整備したとされている。その後の第16代仁徳天皇は難波高津宮を皇居とし、その後国内流通の中心である住吉津や難波津が開港され、本格的に都市としてのスタートを切ることになった。後に我が国の都として難波宮が整備されたが、その後の度重なる遷都により、首都は現在の奈良県・京都府などに移ったため、その後は主に商都として歩むことになる。
市域を中心(首位都市)として、大阪都市圏および京阪神大都市圏を形成している。大阪市の2016年度の市内総生産は約20兆円で[2]、日本国内では東京区部に次ぐ規模を誇る。これは政令指定都市中最大であり、北海道や千葉県、兵庫県など1つの道府県の県内総生産を上回り[3]、約370万人の人口を持つ横浜市の約1.5倍の市内総生産である[4]。また、京阪神大都市圏は圏内総生産約80兆円、世界7位の経済都市圏である[5]。
夜間人口は約275万人(全国2位)、人口密度は政令指定都市中1位(全市町村中5位)、昼間人口は市外から多くの通勤・通学者が流入するため、約354万人である。面積は、全国に20市ある政令指定都市の中でも川崎市、堺市、さいたま市に次ぎ4番目に小さい。これは横浜市のおよそ半分、名古屋市のおよそ3分の2程度であるが、行政区が24区と政令指定都市中最多であるため面積が10km2に満たない行政区が多い。近年では都心回帰が顕著で、大阪都心6区や都心9区を中心に人口が増加しており、西区や城東区では人口密度が2万人/km2を超えている。
古代より瀬戸内海・大阪湾に面した立地から、住吉津や難波津などの港を持ち、港湾都市、国内流通の中心として栄え水の都と称された。中世には、渡辺津や浄土真宗の本山であった石山本願寺が置かれ、寺内町として商工業が発展。近世初期には、古代から生国魂神社や難波宮が存在した上町台地の先端付近に豊臣秀吉が大坂城を築城し、城下町が整備された。江戸時代には天領となり、経済・交通・金融・商業の中心地として発展。堂島米市場が置かれ、当時の経済の中心であった米の中央市場として機能した。大坂は天下の台所と称され、商業の町で豊かな町人文化(上方文化)を育んだ。明治時代に入ると、繊維工業(船場の繊維問屋街なども有名)を中心とした工業都市となり、「東洋のマンチェスター」「煙の都」と称された。
1925年に第2次市域拡大を行い、人口は211万人に到達。当時の東京市を上回り、面積・人口・工業出荷額において日本1位、人口世界6位の大都市へと成長した。この時代を「大大阪時代」と呼ぶ[6][7][8][9]。1923年に都市計画学者である關一が第7代大阪市長に就任すると、關は堺筋に代わる市のメインストリートとして、御堂筋の拡張・整備を行い、その地下に日本初の公営地下鉄である大阪市営地下鉄(現在の大阪市高速電気軌道〈Osaka Metro〉)御堂筋線の一部(梅田駅-心斎橋駅)を建設するなど、現在につながる大阪の基礎を作り上げた。他方で、卸売業を中心に商業活動も活発であり、道修町(薬種)、松屋町(玩具)、本町(繊維)など市内各所に江戸時代からの歴史を持つ問屋街が発達している。
Osaka Metro御堂筋線が市内交通における大動脈として機能しており、新大阪駅-梅田駅-難波駅-天王寺駅といった重要な駅を南北に結んでいる。また、在阪の大手私鉄5社の主要ターミナル駅は全て御堂筋線の駅と接続している。梅田を中心としたキタや心斎橋・難波を中心としたミナミが2大繁華街として繁栄しており、商業の中心地として機能している。他にも天王寺や新世界、京橋、十三などの繁華街を擁し、阿倍野・天王寺エリアにあるあべのハルカスは日本有数の超高層ビルとして知られる。中之島・淀屋橋や北浜界隈の大阪市の伝統的なオフィス街には、金融街が形成されている。また、梅田・堂島・中之島や大阪ビジネスパーク (OBP) には超高層ビルが林立しており、華やかな都市景観を形成している。市役所が所在する中之島や、大阪府庁が所在する大手前周辺には、官公庁や公的機関が数多く立地している。
イギリスの調査機関エコノミスト・インテリジェンス・ユニットが、世界の主要140都市を対象に行った調査「Global Liveability Index(世界住みよさの指標)」2019年度版において、ウィーン、メルボルン、シドニーに次ぐ世界4位、アジア1位の都市と評価された[10]。アメリカのシンクタンクが発表している世界都市ランキング「2020 Global Cities Index(世界都市の指標)」において、世界35位の都市と評価された[11]。イギリスのシンクタンクが発表した2021年の報告書「The Global Financial Centres Index(世界金融センター指標)」によると、世界32位の金融センターと評価されている[12]。
奈良市(ならし)は、奈良県の北部に位置する市。奈良県の県庁所在地及び最大の都市であり、中核市に指定されている。
奈良時代に都が置かれたことから古都と呼ばれる。また京都に対して南都とも呼ばれた。
奈良時代に平城京が置かれた古都であり、天平文化が花開いた地として知られる。
現在の奈良市は、奈良県の北部一帯を占める広域市で同時に奈良盆地の北端にも当たる。市東部は大和高原の一部をなし、標高300mから600m級の高地が続く。市街の北は古代に平城山(ならやま)と呼ばれた丘陵地帯で京都府と接している。平城山を越えて山城と通じる奈良坂は古くからの重要交通路の一つ。
市域は東西に広く、(1) 東部の山間地、(2) 文化財を多数抱え国際観光文化都市としての顔を持つ中東部の中心市街地、(3) 大阪の衛星都市・ベッドタウンとしての性格を持ち住宅地として開発が行われてきた西部と、複数の顔を持ち、同じ市内でありながら地域の雰囲気、住民の指向は違いを見せる。
奈良市街地の西にはウワナベ古墳など5世紀の巨大古墳が築かれ、佐紀盾列古墳群を形成している。『和名抄』に見える大和国添上郡山村郷、楊生郷、八島郷、大岡郷、春日郷及び添下郡佐紀郷、鳥貝郷の地であった。
現在の市域周辺が日本史の舞台に登場するのは、710年に都が藤原京から平城京に遷ってからのことである。その後、何度か短期間の遷都があったものの長岡京に遷る784年まで、この地が日本の中心となっていた。長岡京への遷都後も、東大寺や薬師寺、興福寺などの仏教寺院勢力がこの地域に残り、南都と呼ばれた。
中世になってからも、興福寺が大和守護職に任じられるなど広大な荘園を有する仏教寺院勢力は依然として影響力を保持していた。むしろ大寺院の勢力は戦乱の時代においてこそ影響力が大きく、そのために何度か戦火に見舞われた。2度の大仏焼失事件(南都焼討と東大寺大仏殿の戦い)などはその象徴的な出来事といえる。しかし、室町時代から戦国時代にかけて、他国および近在の所領も含めて在地の大和武士団が実効的な支配を行うようになったために大寺院の勢力は衰えた。
江戸時代には江戸幕府の奈良奉行が設置されて天領として徳川家の直接支配地になった。江戸時代の寺町の雰囲気を残すのが奈良町(ならまち)である。また、現在の市域の南部は伊勢国の津藩の飛び地(古市町付近が藤堂家の領地)であった。同じく奈良市域の北東部は柳生藩の領地となっていた。
太平洋戦争中は同じ宗教都市である京都市と共に大規模な空襲は受けなかったため、21世紀の令和現在も多くの文化遺産が残されている。
姫路城(ひめじじょう)は、兵庫県姫路市にある日本の城。江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が現存し、国宝や重要文化財に指定されている。また、主郭部を含む中堀の内側は「姫路城跡」として国の特別史跡に指定されている[8][9]。また、ユネスコの世界遺産リストにも登録され[10][11]、日本100名城[12]などに選定されている。別名は白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう。詳細は名称の由来と別名を参照)という。
姫路城は播磨国飾磨郡[注釈 1]の現在の姫路市街の北側にある姫山および鷺山を中心に築かれた平山城で、日本における近世城郭の代表的な遺構である。江戸時代以前に建設された天守が残る現存12天守の一つで、中堀以内のほとんどの城域が特別史跡に、現存建築物の内、大天守・小天守・渡櫓等8棟が国宝に、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に、それぞれ指定されている。1993年(平成5年)12月にはユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された[14]。この他、「国宝五城」[注釈 2]や「三名城」、「三大平山城・三大連立式平山城」の一つにも数えられている。 姫路城の始まりは、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範による築城とする説が有力で、『姫路城史』や姫路市ではこの説を採っている。一方で赤松氏時代のものは砦や館のような小規模なもので、城郭に相当する規模の構築物としては戦国時代後期に西播磨地域で勢力を持っていた小寺氏[注釈 3]の家臣、黒田重隆・職隆父子による築城を最初とする説もある[15]。
戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏や羽柴氏が城代になると、山陽道上の交通の要衝・姫路に置かれた姫路城は本格的な城郭に拡張され、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張された。
江戸時代には姫路藩の藩庁となり、更に西国の外様大名監視のために西国探題が設置された。城主が幼少・病弱・無能では牽制任務を果たせないので大名が頻繁に交替して城主に成っている。池田氏に始まり譜代大名の本多氏・榊原氏・酒井氏や親藩の松平氏が配属され、池田輝政から明治新政府による版籍奉還が行われた時の酒井忠邦まで約270年間、6氏31代(赤松氏から数えると約530年間、13氏48代)が城主を務めた。
明治時代初期に陸軍省の管理下に入ったが、まもなく民間に払い下げとなり、競売で神戸清一郎が23円50銭で落札したが、その後権利が放棄されたらしく国有に戻っている[16]。その後は陸軍兵営地となり歩兵第10連隊の駐屯地として使用され、兵舎増築のため本城、向屋敷、東屋敷等が撤去された[17]。年を経るごとに腐朽が進んでいたが、陸軍の中村重遠工兵大佐の働きかけによって大小天守群・櫓群などを名古屋城とともに保存する処置が取られ、その後また腐朽が進むと市民の間から衆貴両院に修復工事の陳情が行われ、議会の決議により国費9万円をもっての「明治の大修理」が行われた[2][18]。
この大修理を機に市民の間から陸軍省から姫路市への払い下げと城を公開にすることを求める声が強まり、姫路市会の決議を経て1914年(大正3年)に軍用地を除き姫路市への無償払い下げが決定し、公開されることなった[19]。
史蹟名勝天然紀念物保存法に基づき1927年(昭和2年)には姫路城は史跡に指定され、さらに国宝保存法に基づき1931年(昭和6年)に姫路城天守閣が国宝指定を受けた[20]。太平洋戦争中には姫路も2度の空襲被害があったものの、大天守最上階に落ちた焼夷弾が不発弾となる幸運もあり奇跡的に焼失を免れ、現在に至るまで大天守をはじめ多くの城郭建築の姿を残している。
「昭和の大修理」を経て、姫路公園の中心として周辺一帯も含めた整備が進められ、祭りや行事の開催、市民や観光客の憩いの場になっているほか、戦国時代や江戸時代を舞台にした時代劇などの映像作品の撮影が行われることも多く、姫路市の観光・文化の中核となっている。
平等院(びょうどういん)は、京都府宇治市宇治蓮華にある単立の寺院。山号は朝日山[* 1]。開基は藤原頼通、開山は明尊。本尊は阿弥陀如来坐像。
宗派は17世紀以来天台宗と浄土宗を兼ね、現在は特定の宗派に属しておらず、塔頭である本山修験宗聖護院末寺の最勝院と浄土宗の浄土院が年交代制で共同管理している。
鳳凰堂(国宝)で世界に広く知られている。平安時代後期にあたる11世紀以来保持されてきた数々の建造物を中心とする寺宝と文化財は、往時の思想・文化を今に伝える。平等院と周辺地域は琵琶湖国定公園指定区域の一つである「宇治川沿岸地区」の中核をなす。1994年(平成6年)に登録されたユネスコ世界遺産「古都京都の文化財」の構成物件の一つでもある。
彦根城(ひこね じょう)は、近江国犬上郡彦根(現在の滋賀県彦根市金亀町)[1]にある城。江戸時代には彦根藩の政庁が置かれた。天守、附櫓及び多聞櫓は国宝、城跡は特別史跡かつ琵琶湖国定公園第1種特別地域である。天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は犬山城、松本城、姫路城、松江城)。
江戸時代初期、現在の滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、鎮西を担う井伊氏の拠点として築かれた平山城(標高50m)である。山は「金亀山(こんきやま)」の異名を持つため、金亀城(こんきじょう)とも呼ばれた。多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。
明治時代初期の廃城令に伴う破却を免れ、天守が現存する。天守[注 1]と附櫓(つけやぐら)及び多聞櫓(たもんやぐら)の2棟[注 2]が国宝に指定されるほか、安土桃山時代から江戸時代の櫓・門など5棟が現存し、国の重要文化財に指定されている。中でも馬屋は重要文化財指定物件として全国的に稀少である。一説では、大隈重信の上奏により1878年(明治11年)に建物が保存されることとなったのだという。
天守が国宝指定された5城の一つに数えられる[注 3]。姫路城とともに遺構をよく遺している城郭で、1992年(平成4年)に日本の世界遺産暫定リストに掲載されたものの、近年の世界遺産登録の厳格化の下、20年以上推薦は見送られている。
滋賀県は明治の廃城令で解体された城が多く彦根城は唯一の保存例である(歴史・沿革を参照)。