
三井财团的前身是由三井家族统治的三井财阀。创始人三井八郎兵卫高利于1673年在江户(今东京)和京都开办绸缎庄,以后兼营钱庄,从18世纪20年代起开设了以经办银钱汇兑业务为主的三井兑换店,成为商业资本加高利贷资本,并资助封建诸侯,替德川幕府包办汇兑,作为御用特权商人而成为富商巨贾。明治维新时,三井家族转到朝廷方面,资助新的天皇制政府调度兵粮军饷,发展成政商,得到明治政府的照顾,把持了全国的金融业。在此基础上,1876年开设了日本第一家私人银行三井银行,创设了三井物产公司。1910年建立了总持股公司,基本形成了近代的三井财阀。第一次世界大战后,三井财阀成为最大的垄断资本集团。到第二次世界大战结束时,三井财阀所属直系和旁系公司及其子公司共达273家。三井财阀在此之后曾一度被解散。50年代初,由三井银行发起成立了月曜会,接着以促进三井物产公司的合并为目的而成立了总经理一级的五日会,1960年改名为二木会,逐渐成为三井财团的统筹领导机构。50年代末,原三井财阀直系、旁系公司以企业集团的新形式集结而恢复成为大财团。三井财团的经理会成员公司及其子公司和联带公司共达150多家。
资产总额为36万亿日元,雇员近24万人。核心成员有24家大垄断公司,其中银行2家、保险公司2家、工矿企业15家、商社1家、大百货商店1家、房地产行业1家和运输企业2家。由这些企业组成的经理会、称为二木会,是三井财团的最高领导机构。其中三井银行、三井物产、三井不动产公司是财团的三大支柱企业,这三大企业的首脑人物形成最高领导核心,对外代表三井财团。除了二木会成员企业外,还有未参加二木会而参加月曜会的16家直系子公司。此外三井财团还通过贷款、持股和人事关系,控制着一批旁系公司,其中持股率超过10%的联带公司达114家。

法隆寺(ほうりゅうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内にある聖徳宗の総本山の寺院。斑鳩寺(いかるがでら、鵤寺とも)、法隆学問寺としても知られる[1]。
法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方メートル。西院伽藍は、現存する世界最古の木造建築物群である[2]。
法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年(平成5年)に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。建造物以外にも、飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。
法隆寺のある斑鳩の地は、生駒山地の南端近くに位置し、大和川を通じて大和国(現・奈良県)と河内国(現・大阪府南部)とを結ぶ交通の要衝であった。付近には藤ノ木古墳を始めとする多くの古墳や古墳時代の遺跡が存在し、この地が古くから一つの文化圏を形成していたことをうかがわせる[3]。
『日本書紀』によれば、聖徳太子こと厩戸皇子(用明天皇の皇子)は推古9年(601年)、飛鳥からこの地に移ることを決意し、宮室(斑鳩宮)の建造に着手、推古天皇13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだという。法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地である。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺であった。明治時代の半ば(19世紀末頃)まで、法隆寺の西院伽藍の建物は創建以来一度も火災に遭わず、推古朝に聖徳太子の建立したものがそのまま残っていると信じられていた。しかし、『日本書紀』には天智天皇9年(670年)に法隆寺が全焼したという記事のあることから、現存する法隆寺の伽藍は火災で一度失われた後に再建されたものではないかという意見(再建論)が明治20年(1887年)頃から出されるようになった(菅政友、黒川真頼、小杉榲邨ら)。これに対し、『書紀』の記載は信用できず、西院伽藍は推古朝以来焼けていないと主張する学者たちもおり(平子鐸嶺、関野貞ら)、両者の論争(法隆寺再建・非再建論争)はその後数十年間続いた(論争の詳細については後述)[4][5]。
石田茂作らによる昭和14年(1939年)の旧伽藍(いわゆる若草伽藍)の発掘調査以降、現存の法隆寺西院伽藍は聖徳太子在世時の建築ではなく、一度焼亡した後に再建されたものであることが決定的となり、再建・非再建論争には終止符が打たれた。現存の西院伽藍については、持統7年(693年)に法隆寺で仁王会が行われている(『法隆寺資財帳』)ことから、少なくとも伽藍の中心である金堂はこの頃までに完成していたとみられる。同じく『資財帳』によれば、和銅4年(711年)には五重塔初層安置の塑像群や中門安置の金剛力士像が完成しているので、この頃までには五重塔、中門を含む西院伽藍全体が完成していたとみられる[6][7][8]。
現・西院伽藍の南東に位置する若草伽藍跡が焼失した創建法隆寺の跡であり、この伽藍が推古朝の建立であったことは、発掘調査の結果や出土瓦の年代等から定説となっている[9]。また、昭和14年(1939年)、東院の建物修理工事中に地下から掘立柱建物の跡が検出され、これが斑鳩宮の一部であると推定されている[10]。「日本仏教の祖」としての聖徳太子の実像については、20世紀末頃から再検討がなされており、『書紀』などが伝える聖徳太子の事績はことごとく捏造であるとする主張もある。ただし、こうした聖徳太子非実在論に対しては根強い反論もある。また、聖徳太子非実在論説を唱える大山誠一も、厩戸皇子という皇族の存在と、その人物が斑鳩寺(創建法隆寺)を建立したことまでは否定していない[11]。
金堂の「東の間」に安置される銅造薬師如来坐像(国宝)の光背銘には「用明天皇が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したが、用明天皇がほどなく亡くなったため、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子があらためて推古天皇15年(607年)、像と寺を完成した」という趣旨の記述がある。しかし、正史である『日本書紀』には(前述および後述の670年の火災の記事はあるが)法隆寺の創建については何も書かれていない。
前述の金堂薬師如来像については、昭和8年(1933年)、福山敏男により、
- 像自体の様式や鋳造技法の面から、実際の製作は7世紀後半に下るとみられる。
- 607年当時、日本における薬師如来信仰の存在が疑問視される。
- 銘文中の用語に疑問が持たれる。
という疑問が提出された。この説はおおむね支持を得ており、薬師像は文字通り607年まで遡る製作とは見なされていない。また、金堂の中央に安置される本尊は「623年に聖徳太子の冥福のため止利が造った」という内容の光背銘を持つ釈迦三尊像であり、これより古い薬師如来像が「東の間」に安置されて脇仏のような扱いをされている点も不審である[12]。
皇極天皇2年(643年)、蘇我入鹿が山背大兄王を襲った際に斑鳩宮は焼失したが、法隆寺はこの時は無事だったと考えられる。
なお、八角堂の夢殿を中心とする東院伽藍は、天平10年(738年)頃、行信僧都が斑鳩宮の旧地に太子を偲んで建立したものである。
養老2年(718年)に県犬養橘三千代(橘夫人)が西円堂を建立したとする伝承がある。また、娘の光明皇后が多額の寄進を行い、孫娘の橘古那可智(聖武天皇夫人)の居所が寄進されて伝法院になったのも、彼女たちの法隆寺への信仰も三千代の影響と考えられる[13]。

厳島神社(いつくしまじんじゃ、公式表記:嚴島神社[1])は、広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社。式内社(名神大社)、安芸国一宮。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「三つ盛り二重亀甲に剣花菱」。
古くは「伊都岐島神社」とも記された。全国に約500社ある厳島神社の総本社である。
平成8(1996)年12月にユネスコの世界文化遺産に「厳島神社」として登録されている[2]。
広島県広島湾に浮かぶ厳島(宮島)の北東部、弥山(標高535m)北麓に鎮座する。厳島は一般に「安芸の宮島」とも呼ばれ日本三景の1つに数えられている。平家からの信仰で有名で、平清盛により現在の海上に立つ大規模な社殿が整えられた。社殿は現在、本殿・拝殿・回廊など6棟が国宝に、14棟が重要文化財に指定されているそのほか、平家の納めた平家納経を始めとした国宝・重要文化財の工芸品を多数納めている。
厳島神社の平舞台(国宝:附指定)は日本三舞台の1つ[* 1]に数えられるほか、海上に立つ高さ16mの大鳥居(重要文化財)は日本三大鳥居の1つ[* 2]である。また、夏に行われる例祭は「管絃祭」として知られる。
創建
社伝では、推古天皇元年(593年)、当地方の有力豪族・佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に市杵島姫命を祀る社殿を創建したことに始まるとされる。「イツクシマ」という社名も「イチキシマ」が転じたものとする説がある。
厳島神社の鎮座する厳島(宮島)は「神に斎く(いつく = 仕える)島」という語源[* 4]のように、古代から島そのものが神として信仰されたと考えられている。厳島中央の弥山(標高535m)山頂には巨石が連なっており、山岳信仰の対象であったとされる。
概史
文献での初出は、弘仁2年(811年)に名神に預かったという記事である。平安時代中期の『延喜式神名帳』では「安芸国佐伯郡 伊都伎嶋神社」と記載されて名神大社に列したほか、安芸国一宮とされた。その頃には神職は佐伯氏が掌握した。この社格が昇っていく過程で祭神が整備されていったと考えられており、祭神の市杵島姫命が明記されるのは『一宮記』以降になる。
平安時代末期、神主・佐伯景弘と当時の安芸守・平清盛の結びつきを契機に平家一族から崇敬を受けた。仁安3年(1168年)頃、平清盛が社殿を造営し現在と同程度の大規模な社殿が整えられた[* 5]。平家一門の隆盛とともに厳島神社も栄えて平家の氏神となった。平家滅亡後も源氏をはじめとして時の権力者の崇敬を受けるが、建永2年(1207年)と貞応2年(1223年)の2度の火災で建物の全てを焼失している。そのため、現在残る社殿は仁治年間(1240年-1243年)以降に造営されたものである。
厳島は神の住む島として禁足地とされ、鎌倉時代頃までは地御前神社(外宮)において主な祭祀が行われていた。鎌倉時代末期から南北朝時代以降、社人・僧侶が禁を破って住むようになったとされる[4]。
戦国時代に入り世の中が不安定になると社勢は徐々に衰退する。毛利元就が弘治元年(1555年)の厳島の戦いで勝利を収めて厳島を含む一帯を支配下に置き、厳島神社を崇敬するようになると再び隆盛した。元就は大掛かりな社殿修復を行なった。また、豊臣秀吉も九州遠征の途上で厳島神社に参拝し、大経堂(現 千畳閣)の造営を行なっている。
江戸時代には厳島詣が民衆に広まり、門前町や周囲は多くの参拝者で賑わった。
明治維新後、明治新政府が派遣した大参事によって社殿が「仏式」と判断され、神仏分離の原則によって社殿の焼却が命じられた(廃仏毀釈)。厳島神社の棚守(宮司に相当)が東京の明治新政府に直訴したことによって社殿の焼却は免れたものの、仏教的と考えられた社殿の彩色がすべて剥がし落とされて「白木造」に改められ、千木と鰹木が新設されるなどの「復古」が行われた。また大経堂(千畳閣)は内陣の木鼻を切り落とし、仏像などを撤去したうえで末社「豊国神社」に改めるなど、社殿の損壊と分離が行われ、大聖院(旧別当寺)、大願寺といった寺院が独立した。
明治4年(1871年)近代社格制度において国幣中社に列し、明治44年(1911年)に官幣中社に昇格した。明治末に社殿が国宝に指定されたことを機に、廃仏毀釈で破壊された部分が明治末の大修理と大正の修理で復旧され、千木と鰹木も撤去された(このため、明治時代の厳島神社の写真にのみ千木と鰹木が写っている)。



1、日语键盘布局
2、平假名和片假名之间的切换
Hiragana——>平假名 ;
Katakana——>片假名 ;
Alphanumeric——>英文数字 ;
Direct Input——>直接输入假名方式 ;
Full-width——>全角 ;
Half-width——>半角 ;
一般我们常用Hiragana(平假名)模式输入。
3、日语输入法的输入规则简略如下表:
1)清音
平假名:あ い う え お
片假名:ア イ ウ エ オ
输入法:a i u e o
平假名:か き く け こ
片假名:カ キ ク ケ コ
输入法:ka ki ku ke ko
平假名:さ し す せ そ
片假名:サ シ ス セ ソ
输入法:sa si su se so
平假名:た ち つ て と
片假名:タ チ ツ テ ト
输入法:ta ti tu te to 『ち chi』『つ tsu』
平假名:な に ぬ ね の
片假名:ナ ニ ヌ ネ ノ
输入法:na ni nu ne no
平假名:は ひ ふ へ ほ
片假名:ハ ヒ フ ヘ ホ
输入法:ha hi hu he ho 『ふ fu』
平假名:ま み む め も
片假名:マ ミ ム メ モ
输入法:ma mi mu me mo
平假名:や ゆ よ
片假名:ヤ ユ ヨ
输入法:ya yu yo
平假名:ら り る れ ろ
片假名:ラ リ ル レ ロ
输入法:ra ri ru re ro
平假名:わ を ん
片假名:ワ ヲ ン
输入法:wa wo n
2)濁音
平假名:が ぎ ぐ げ ご
片假名:ガ ギ グ ゲ ゴ
输入法:ga gi gu ge go
平假名:ざ じ ず ぜ ぞ
片假名:ザ ジ ズ ゼ ゾ
输入法:za zi zu ze zo『じ ji』
平假名:だ ぢ づ で ど
片假名:ダ ヂ ヅ デ ド
输入法:da di du de do
平假名:ば び ぶ べ ぼ
片假名:バ ビ ブ ベ ボ
输入法:ba bi bu be bo
平假名:ぱ ぴ ぷ ぺ ぽ
片假名:パ ピ プ ペ ポ
输入法:pa pi pu pe po
3)拗音
きゃ きゅ きょ
kya kyu kyo
しゃ しゅ しょ
sya syu syo 『しゃsha しゅshu しょsho』
ちゃ ちゅ ちょ
tya tyu tyo 『ちゃcha ちゅchu ちょcho』
にゃ にゅ にょ
nya nyu nyo
ひゃ ひゅ ひょ
hya hyu hyo
みゃ みゅ みょ
mya myu myo
りゃ りゅ りょ
rya ryu ryo
ぎゃ ぎゅ ぎょ
gya gyu gyo
じゃ じゅ じょ
ja ju jo [じゃ じゅ じょ] zya zyu zyo
[じゃ じゅ じょ
zya zyu zyo
びゃ びゅ びょ
bya byu byo
ぴゃ ぴゅ ぴょ
pya pyu pyo
ぢゃ ぢゅ ぢょ
dya dyu dyo
4)促音
双打っ音后的第一个字母 例:ずっと zutto 、はっきり hakkiri、 やっぱり yappari 单独的っ的打法是xtu(注:在あ い う え お及个别假名打法前加打一个“x”会打出相应的小假名)
5)拨音
按两下"n"。
例:まんぞく mannzoku
4、罗马字和假名输入完全对应表
1)汉字、词的变换
不变换汉字、词的时候,请直接按「enter」回车键即可。
要变换汉字、词语时,请按「space」空格键,即会出现变换出来的汉字或词的清单,找到想输入的汉字或词时再按「enter」回车键。
2)长音ー输入
片假名里的长音符号“ー”,输入方法是按数字键0右方的-(减号键)。
3)拨音ん的输入
连续打两个n。
4)促音输入
单词中输入促音也就是小っ,方式有两种:
① 双重输入后一发音的第一个字母后,会出现促音,比如:切符,きっぷ kippu、学校 がっこう gakkou
② 单独输入小っ的时候可以使用直接输入ltu或者xtu
5)小ぁぃぅぇぉ
其他小假名的输入方式和上面②里面说明的相同,只要在前面加上x或l就可以变成小假名(没有小假名的除外)。
比如:输入字母“l”或“x”+a、i、u、e、o,输入la得到ぁ,输入xa也得到ぁ,输入li得到ぃ。
6)ぢ和づ的输入
ぢ读音为ji,但在输入时应该输入di。
づ读音为zu,但在输入时应该输入du。
7)は和を的输入
は在作助词用时,读作wa,但输入仍为ha。
を的读音为o,但输入时为wo。
8)古语假名ゐ和ゑ的输入
ゐ输入wi
ゑ输入we
然后按空格键寻找就可以了。
9)平假名、片假名、英数字间的转换
输入罗马字之后,按F6转换为平假名,按F7转换为全角片假名,按F8转换为半角片假名,按F9转换为全角英文数字,按F10转换为半角英文数字。
10)快捷键
① 快捷键Alt + ~(Esc键下边的那个键)
可以在直接输入Direct Input(图标A)和平假名Hiragana(图标あ)间切换
② 快捷键Alt + Shift
在系统默认输入/中文输入法和日文输入法之间切换
③ 快捷键Alt +CapsLock 和Ctrl + CapsLock
输大量片假名时,在平假名Hiragana(图标あ)模式下,可以按Alt +CapsLock切换到片假名Katakana(图标カ)模式,输完按CTRL+CAPSLOCK可切回平假名Hiragana(图标あ)。

大学全体
大隈重信が明治十四年の政変による下野後に設立した東京専門学校を前身とする四年制の大学である[1]。1920年(大正9年)に日本の私立大学では慶應義塾大学などと共に最も古い段階で大学令に基づく大学となった(詳しくは旧制大学参照)。2019年時点で、10の学術院のもと13学部・25研究科(大学院)を設置している[2]。国際交流が盛んで、特にアジアからの外国人留学生が多い。
大隈重信が明治の代表的な政治家の一人であり、イギリス流の政治経済学を中心とする大学をモデルに設計されていることから政治経済学部を看板学部とし、政治経済学部を中心に政界・財界に多くの人材を輩出しているのをはじめとして、出版、新聞、文学などの分野でも多くの卒業生が活躍している。英国の教育専門誌『タイムズ・ハイアー・エデュケーション』による2017年の日本版ランキングでは、私大1位に認定された[3]。
早稲田大学は、東京専門学校時代から、文部省「特別認可学校規則」や専門学校令の特例適用、大学令による私立大学として最初期の認可などを受けてきた。政治学、法律学、文学、商学、理工学、教育学、芸術、スポーツなど様々な分野で、近代日本国家の教育・研究分野の形成をリードしてきた学校であり、上述の慶大と共に「私学の雄」と並び称され、私立大学の最高峰に位置付けられることが多い[4]。
同窓会は「稲門会」(とうもんかい)と称され、 早稲田大学校友会に登録している「登録稲門会」に限っても1300を超える団体が存在し、国内有数の学閥となっている。
建学の精神
1913年(大正2年)当時の総長大隈重信は、前身となる東京専門学校の創立30周年記念祝典において、早稲田大学教旨を宣言した。
「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を基本理念としている。
早稲田大学教旨は、高田早苗、坪内逍遥、天野為之、市島謙吉、浮田和民、松平康国などが草案を作成し、大隈重信が校閲のうえ発表した。1937年(昭和12年)に教旨の碑文が早稲田大学正門前に設置された[5]。碑文の刻字は、前島密が1915年(大正4年)に揮毫した自筆が元であり、原本は大学に保存されている[6]。
戦後(1949年)、「立憲帝国の忠良なる臣民として」の14文字は「主権在民を謳った新憲法にふさわしくない」[7]として教旨から削除されたが、正門前の「早稲田大学教旨」の碑に刻まれた語句については「思想の変遷を知る歴史的文書としてそのままに保存することがかえって記念碑の趣旨に副う」[7]として削られることはなかった。現在、石碑は正門の外側左に移設され、大学の外から誰でも自由に見られるようになっている[8]。