
1、日语键盘布局
2、平假名和片假名之间的切换
Hiragana——>平假名 ;
Katakana——>片假名 ;
Alphanumeric——>英文数字 ;
Direct Input——>直接输入假名方式 ;
Full-width——>全角 ;
Half-width——>半角 ;
一般我们常用Hiragana(平假名)模式输入。
3、日语输入法的输入规则简略如下表:
1)清音
平假名:あ い う え お
片假名:ア イ ウ エ オ
输入法:a i u e o
平假名:か き く け こ
片假名:カ キ ク ケ コ
输入法:ka ki ku ke ko
平假名:さ し す せ そ
片假名:サ シ ス セ ソ
输入法:sa si su se so
平假名:た ち つ て と
片假名:タ チ ツ テ ト
输入法:ta ti tu te to 『ち chi』『つ tsu』
平假名:な に ぬ ね の
片假名:ナ ニ ヌ ネ ノ
输入法:na ni nu ne no
平假名:は ひ ふ へ ほ
片假名:ハ ヒ フ ヘ ホ
输入法:ha hi hu he ho 『ふ fu』
平假名:ま み む め も
片假名:マ ミ ム メ モ
输入法:ma mi mu me mo
平假名:や ゆ よ
片假名:ヤ ユ ヨ
输入法:ya yu yo
平假名:ら り る れ ろ
片假名:ラ リ ル レ ロ
输入法:ra ri ru re ro
平假名:わ を ん
片假名:ワ ヲ ン
输入法:wa wo n
2)濁音
平假名:が ぎ ぐ げ ご
片假名:ガ ギ グ ゲ ゴ
输入法:ga gi gu ge go
平假名:ざ じ ず ぜ ぞ
片假名:ザ ジ ズ ゼ ゾ
输入法:za zi zu ze zo『じ ji』
平假名:だ ぢ づ で ど
片假名:ダ ヂ ヅ デ ド
输入法:da di du de do
平假名:ば び ぶ べ ぼ
片假名:バ ビ ブ ベ ボ
输入法:ba bi bu be bo
平假名:ぱ ぴ ぷ ぺ ぽ
片假名:パ ピ プ ペ ポ
输入法:pa pi pu pe po
3)拗音
きゃ きゅ きょ
kya kyu kyo
しゃ しゅ しょ
sya syu syo 『しゃsha しゅshu しょsho』
ちゃ ちゅ ちょ
tya tyu tyo 『ちゃcha ちゅchu ちょcho』
にゃ にゅ にょ
nya nyu nyo
ひゃ ひゅ ひょ
hya hyu hyo
みゃ みゅ みょ
mya myu myo
りゃ りゅ りょ
rya ryu ryo
ぎゃ ぎゅ ぎょ
gya gyu gyo
じゃ じゅ じょ
ja ju jo [じゃ じゅ じょ] zya zyu zyo
[じゃ じゅ じょ
zya zyu zyo
びゃ びゅ びょ
bya byu byo
ぴゃ ぴゅ ぴょ
pya pyu pyo
ぢゃ ぢゅ ぢょ
dya dyu dyo
4)促音
双打っ音后的第一个字母 例:ずっと zutto 、はっきり hakkiri、 やっぱり yappari 单独的っ的打法是xtu(注:在あ い う え お及个别假名打法前加打一个“x”会打出相应的小假名)
5)拨音
按两下"n"。
例:まんぞく mannzoku
4、罗马字和假名输入完全对应表
1)汉字、词的变换
不变换汉字、词的时候,请直接按「enter」回车键即可。
要变换汉字、词语时,请按「space」空格键,即会出现变换出来的汉字或词的清单,找到想输入的汉字或词时再按「enter」回车键。
2)长音ー输入
片假名里的长音符号“ー”,输入方法是按数字键0右方的-(减号键)。
3)拨音ん的输入
连续打两个n。
4)促音输入
单词中输入促音也就是小っ,方式有两种:
① 双重输入后一发音的第一个字母后,会出现促音,比如:切符,きっぷ kippu、学校 がっこう gakkou
② 单独输入小っ的时候可以使用直接输入ltu或者xtu
5)小ぁぃぅぇぉ
其他小假名的输入方式和上面②里面说明的相同,只要在前面加上x或l就可以变成小假名(没有小假名的除外)。
比如:输入字母“l”或“x”+a、i、u、e、o,输入la得到ぁ,输入xa也得到ぁ,输入li得到ぃ。
6)ぢ和づ的输入
ぢ读音为ji,但在输入时应该输入di。
づ读音为zu,但在输入时应该输入du。
7)は和を的输入
は在作助词用时,读作wa,但输入仍为ha。
を的读音为o,但输入时为wo。
8)古语假名ゐ和ゑ的输入
ゐ输入wi
ゑ输入we
然后按空格键寻找就可以了。
9)平假名、片假名、英数字间的转换
输入罗马字之后,按F6转换为平假名,按F7转换为全角片假名,按F8转换为半角片假名,按F9转换为全角英文数字,按F10转换为半角英文数字。
10)快捷键
① 快捷键Alt + ~(Esc键下边的那个键)
可以在直接输入Direct Input(图标A)和平假名Hiragana(图标あ)间切换
② 快捷键Alt + Shift
在系统默认输入/中文输入法和日文输入法之间切换
③ 快捷键Alt +CapsLock 和Ctrl + CapsLock
输大量片假名时,在平假名Hiragana(图标あ)模式下,可以按Alt +CapsLock切换到片假名Katakana(图标カ)模式,输完按CTRL+CAPSLOCK可切回平假名Hiragana(图标あ)。
建学の精神(校訓、理念、学是)
沿革から、産業界の指導者を育成するという建学理念を持つ。19世紀イギリスの論客トーマス・カーライルの著作『過去と現在』("Past and present") から採られた言葉「キャプテンズ・オブ・インダストリー (Captains of Industry)」[3] という言葉は一橋大学における事実上の校是となっている。
教育および研究
少人数教育
一橋大学では少人数教育を重視している[4]。
全学部の入学定員の合計は1学年950人強[5]。1875年開設以来の卒業生の数は7万人程度と比較的少ない[6]。
現在でも、あまり規模が大きくない大学であるが、1980年以前頃までは、さらに少ない学生数であった。戦前の学生数は大学本科1学年280名前後、大学予科1学年200名前後、付属専門部1学年200名前後、商業教員養成所1学年35名前後であり、大学本科全体で合わせて700人から1,000人程度、学園全体で2,400人程度であった[7][8]。
戦後は付属大学予科や付属専門部を吸収して拡張し、1学年440名(1959年)から490名(1963年)程度に増加した[9][10]。他の国立大学文系学部と同様に団塊世代が大学に進学する1965年以降大幅に定員が増え、現在では学部生1学年約950人程度となっている[11]。
ゼミナール
少人数教育における特色としては、特に必修のゼミナール制度が挙げられる。このゼミナール制度はベビーブームの時代にも教員一人に対して10人前後の学生という形態を変更しなかった。現在も10人前後でのゼミが行われている。
またこのゼミナールでは、学問だけでなく全人格的指導を行っているのも特徴であるとされる[12]。学生は3, 4学年の2年間を通じて、同じゼミに所属することとなる。課外でのレクリエーション、ゼミ合宿、卒業後の定期的な会合などが行われるゼミも多い。
学部間の壁が薄い
戦前は東京商科大学という単科大学であったこともあって、学部間の壁があまりない。そのため一般の授業については、他学部の科目を原則自由に履修することができる。さらに他学部の専攻を副専攻とすることができる副専攻プログラムや、他学部への転学部制度もある[13]。
ゼミナールについても、副ゼミナール制度などを利用することにより、他学部のゼミを履修することができる。
また学部によって、使用される建物が違うということもなく、使用されるシラバス・時間割も全学部共通のものである。1年次の語学のクラスも全学部の学生により構成され、他学部の学生と交流する機会も多い。
国際色ある教育
戦前から外国人教師を任用するなど国際色ある教育が伝統[14] で、現在500名を超える留学生が在籍しており、文部科学省の大学国際戦略本部強化事業にも採択されている。
大学に在学しながら、海外の大学に留学し、その際授業料・旅費・生活費が全額給付されるという一橋大学海外留学奨学金制度もある。また授業の一環として夏休み等に海外の大学に語学留学する講義も開講されている。
学風および特色
官学化に反する学風
産業界の指導者を育成するという建学理念があり、そして実際にも卒業生の多くが産業界で活躍し、従来官界、法曹界に進むものは多くはなかった。また1909年には東京帝国大学に統合し、東京帝国大学法科大学商科とすると決定した文部省に対し、学生、教員、同窓会が抗議、緒方竹虎、武井大助らがリーダーとなり学生が総退学決議をなし、これに折れた文部省が決定を撤回し、その結果、現在も一橋大学が存続しているという経緯がある。そこで、卒業生は「官僚等の養成を目的に設立された旧帝国大学とは違う」という考え方を持っている[15]。ただ、現在では法曹界や官界に進む卒業生も増えてきている[15]。特に法科大学院ができてからは大学の公式のプログラムにより法曹養成が行われており、公共政策大学院も設置されている。
学生の自由を重んじる
現在の大学の名称が学生の投票により決められ、また学長選において学生の投票を最後まで認めていた大学であるという事実等から関係者は「学生の自由を重んじる校風をもっている」と考えており[16]、現在でも学長選・副学長選では学生による参考投票が行われている[17]。

名古屋城(なごやじょう)は、日本の城のひとつ。尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区本丸・北区名城)[1]にある。「名城(めいじょう)」、「金鯱城(きんこじょう、きんしゃちじょう)」、(きんじょう)」の異名を持つ。日本100名城に選定されており、国の特別史跡に指定されている。
戦国時代
16世紀の前半に今川氏親が、尾張進出のために築いた「柳ノ丸」が名古屋城の起源とされる。この城は、のちの名古屋城二之丸一帯にあったと考えられている。
1538年(天文七年)、織田信秀が今川氏豊から奪取し那古野城と改名した。信秀は一時期この城に居住し、1542年頃に信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となった(かつては1532年に城を奪取し、信長は那古野城で生まれたとされていたが、近年は上記の為勝幡城で生まれたという説が有力である)。1555年(弘治元年)に信長が清須城(清洲城)に本拠を移し、その後叔父の信光に与えられるが家臣に殺害されたため、家臣の林秀貞が守ることになるもやがて廃城となった。