
大学全体
大隈重信が明治十四年の政変による下野後に設立した東京専門学校を前身とする四年制の大学である[1]。1920年(大正9年)に日本の私立大学では慶應義塾大学などと共に最も古い段階で大学令に基づく大学となった(詳しくは旧制大学参照)。2019年時点で、10の学術院のもと13学部・25研究科(大学院)を設置している[2]。国際交流が盛んで、特にアジアからの外国人留学生が多い。
大隈重信が明治の代表的な政治家の一人であり、イギリス流の政治経済学を中心とする大学をモデルに設計されていることから政治経済学部を看板学部とし、政治経済学部を中心に政界・財界に多くの人材を輩出しているのをはじめとして、出版、新聞、文学などの分野でも多くの卒業生が活躍している。英国の教育専門誌『タイムズ・ハイアー・エデュケーション』による2017年の日本版ランキングでは、私大1位に認定された[3]。
早稲田大学は、東京専門学校時代から、文部省「特別認可学校規則」や専門学校令の特例適用、大学令による私立大学として最初期の認可などを受けてきた。政治学、法律学、文学、商学、理工学、教育学、芸術、スポーツなど様々な分野で、近代日本国家の教育・研究分野の形成をリードしてきた学校であり、上述の慶大と共に「私学の雄」と並び称され、私立大学の最高峰に位置付けられることが多い[4]。
同窓会は「稲門会」(とうもんかい)と称され、 早稲田大学校友会に登録している「登録稲門会」に限っても1300を超える団体が存在し、国内有数の学閥となっている。
建学の精神
1913年(大正2年)当時の総長大隈重信は、前身となる東京専門学校の創立30周年記念祝典において、早稲田大学教旨を宣言した。
「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を基本理念としている。
早稲田大学教旨は、高田早苗、坪内逍遥、天野為之、市島謙吉、浮田和民、松平康国などが草案を作成し、大隈重信が校閲のうえ発表した。1937年(昭和12年)に教旨の碑文が早稲田大学正門前に設置された[5]。碑文の刻字は、前島密が1915年(大正4年)に揮毫した自筆が元であり、原本は大学に保存されている[6]。
戦後(1949年)、「立憲帝国の忠良なる臣民として」の14文字は「主権在民を謳った新憲法にふさわしくない」[7]として教旨から削除されたが、正門前の「早稲田大学教旨」の碑に刻まれた語句については「思想の変遷を知る歴史的文書としてそのままに保存することがかえって記念碑の趣旨に副う」[7]として削られることはなかった。現在、石碑は正門の外側左に移設され、大学の外から誰でも自由に見られるようになっている[8]。

姫路城(ひめじじょう)は、兵庫県姫路市にある日本の城。江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が現存し、国宝や重要文化財に指定されている。また、主郭部を含む中堀の内側は「姫路城跡」として国の特別史跡に指定されている[8][9]。また、ユネスコの世界遺産リストにも登録され[10][11]、日本100名城[12]などに選定されている。別名は白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう。詳細は名称の由来と別名を参照)という。
姫路城は播磨国飾磨郡[注釈 1]の現在の姫路市街の北側にある姫山および鷺山を中心に築かれた平山城で、日本における近世城郭の代表的な遺構である。江戸時代以前に建設された天守が残る現存12天守の一つで、中堀以内のほとんどの城域が特別史跡に、現存建築物の内、大天守・小天守・渡櫓等8棟が国宝に、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に、それぞれ指定されている。1993年(平成5年)12月にはユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された[14]。この他、「国宝五城」[注釈 2]や「三名城」、「三大平山城・三大連立式平山城」の一つにも数えられている。 姫路城の始まりは、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範による築城とする説が有力で、『姫路城史』や姫路市ではこの説を採っている。一方で赤松氏時代のものは砦や館のような小規模なもので、城郭に相当する規模の構築物としては戦国時代後期に西播磨地域で勢力を持っていた小寺氏[注釈 3]の家臣、黒田重隆・職隆父子による築城を最初とする説もある[15]。
戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏や羽柴氏が城代になると、山陽道上の交通の要衝・姫路に置かれた姫路城は本格的な城郭に拡張され、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張された。
江戸時代には姫路藩の藩庁となり、更に西国の外様大名監視のために西国探題が設置された。城主が幼少・病弱・無能では牽制任務を果たせないので大名が頻繁に交替して城主に成っている。池田氏に始まり譜代大名の本多氏・榊原氏・酒井氏や親藩の松平氏が配属され、池田輝政から明治新政府による版籍奉還が行われた時の酒井忠邦まで約270年間、6氏31代(赤松氏から数えると約530年間、13氏48代)が城主を務めた。
明治時代初期に陸軍省の管理下に入ったが、まもなく民間に払い下げとなり、競売で神戸清一郎が23円50銭で落札したが、その後権利が放棄されたらしく国有に戻っている[16]。その後は陸軍兵営地となり歩兵第10連隊の駐屯地として使用され、兵舎増築のため本城、向屋敷、東屋敷等が撤去された[17]。年を経るごとに腐朽が進んでいたが、陸軍の中村重遠工兵大佐の働きかけによって大小天守群・櫓群などを名古屋城とともに保存する処置が取られ、その後また腐朽が進むと市民の間から衆貴両院に修復工事の陳情が行われ、議会の決議により国費9万円をもっての「明治の大修理」が行われた[2][18]。
この大修理を機に市民の間から陸軍省から姫路市への払い下げと城を公開にすることを求める声が強まり、姫路市会の決議を経て1914年(大正3年)に軍用地を除き姫路市への無償払い下げが決定し、公開されることなった[19]。
史蹟名勝天然紀念物保存法に基づき1927年(昭和2年)には姫路城は史跡に指定され、さらに国宝保存法に基づき1931年(昭和6年)に姫路城天守閣が国宝指定を受けた[20]。太平洋戦争中には姫路も2度の空襲被害があったものの、大天守最上階に落ちた焼夷弾が不発弾となる幸運もあり奇跡的に焼失を免れ、現在に至るまで大天守をはじめ多くの城郭建築の姿を残している。
「昭和の大修理」を経て、姫路公園の中心として周辺一帯も含めた整備が進められ、祭りや行事の開催、市民や観光客の憩いの場になっているほか、戦国時代や江戸時代を舞台にした時代劇などの映像作品の撮影が行われることも多く、姫路市の観光・文化の中核となっている。

1、日语键盘布局
2、平假名和片假名之间的切换
Hiragana——>平假名 ;
Katakana——>片假名 ;
Alphanumeric——>英文数字 ;
Direct Input——>直接输入假名方式 ;
Full-width——>全角 ;
Half-width——>半角 ;
一般我们常用Hiragana(平假名)模式输入。
3、日语输入法的输入规则简略如下表:
1)清音
平假名:あ い う え お
片假名:ア イ ウ エ オ
输入法:a i u e o
平假名:か き く け こ
片假名:カ キ ク ケ コ
输入法:ka ki ku ke ko
平假名:さ し す せ そ
片假名:サ シ ス セ ソ
输入法:sa si su se so
平假名:た ち つ て と
片假名:タ チ ツ テ ト
输入法:ta ti tu te to 『ち chi』『つ tsu』
平假名:な に ぬ ね の
片假名:ナ ニ ヌ ネ ノ
输入法:na ni nu ne no
平假名:は ひ ふ へ ほ
片假名:ハ ヒ フ ヘ ホ
输入法:ha hi hu he ho 『ふ fu』
平假名:ま み む め も
片假名:マ ミ ム メ モ
输入法:ma mi mu me mo
平假名:や ゆ よ
片假名:ヤ ユ ヨ
输入法:ya yu yo
平假名:ら り る れ ろ
片假名:ラ リ ル レ ロ
输入法:ra ri ru re ro
平假名:わ を ん
片假名:ワ ヲ ン
输入法:wa wo n
2)濁音
平假名:が ぎ ぐ げ ご
片假名:ガ ギ グ ゲ ゴ
输入法:ga gi gu ge go
平假名:ざ じ ず ぜ ぞ
片假名:ザ ジ ズ ゼ ゾ
输入法:za zi zu ze zo『じ ji』
平假名:だ ぢ づ で ど
片假名:ダ ヂ ヅ デ ド
输入法:da di du de do
平假名:ば び ぶ べ ぼ
片假名:バ ビ ブ ベ ボ
输入法:ba bi bu be bo
平假名:ぱ ぴ ぷ ぺ ぽ
片假名:パ ピ プ ペ ポ
输入法:pa pi pu pe po
3)拗音
きゃ きゅ きょ
kya kyu kyo
しゃ しゅ しょ
sya syu syo 『しゃsha しゅshu しょsho』
ちゃ ちゅ ちょ
tya tyu tyo 『ちゃcha ちゅchu ちょcho』
にゃ にゅ にょ
nya nyu nyo
ひゃ ひゅ ひょ
hya hyu hyo
みゃ みゅ みょ
mya myu myo
りゃ りゅ りょ
rya ryu ryo
ぎゃ ぎゅ ぎょ
gya gyu gyo
じゃ じゅ じょ
ja ju jo [じゃ じゅ じょ] zya zyu zyo
[じゃ じゅ じょ
zya zyu zyo
びゃ びゅ びょ
bya byu byo
ぴゃ ぴゅ ぴょ
pya pyu pyo
ぢゃ ぢゅ ぢょ
dya dyu dyo
4)促音
双打っ音后的第一个字母 例:ずっと zutto 、はっきり hakkiri、 やっぱり yappari 单独的っ的打法是xtu(注:在あ い う え お及个别假名打法前加打一个“x”会打出相应的小假名)
5)拨音
按两下"n"。
例:まんぞく mannzoku
4、罗马字和假名输入完全对应表
1)汉字、词的变换
不变换汉字、词的时候,请直接按「enter」回车键即可。
要变换汉字、词语时,请按「space」空格键,即会出现变换出来的汉字或词的清单,找到想输入的汉字或词时再按「enter」回车键。
2)长音ー输入
片假名里的长音符号“ー”,输入方法是按数字键0右方的-(减号键)。
3)拨音ん的输入
连续打两个n。
4)促音输入
单词中输入促音也就是小っ,方式有两种:
① 双重输入后一发音的第一个字母后,会出现促音,比如:切符,きっぷ kippu、学校 がっこう gakkou
② 单独输入小っ的时候可以使用直接输入ltu或者xtu
5)小ぁぃぅぇぉ
其他小假名的输入方式和上面②里面说明的相同,只要在前面加上x或l就可以变成小假名(没有小假名的除外)。
比如:输入字母“l”或“x”+a、i、u、e、o,输入la得到ぁ,输入xa也得到ぁ,输入li得到ぃ。
6)ぢ和づ的输入
ぢ读音为ji,但在输入时应该输入di。
づ读音为zu,但在输入时应该输入du。
7)は和を的输入
は在作助词用时,读作wa,但输入仍为ha。
を的读音为o,但输入时为wo。
8)古语假名ゐ和ゑ的输入
ゐ输入wi
ゑ输入we
然后按空格键寻找就可以了。
9)平假名、片假名、英数字间的转换
输入罗马字之后,按F6转换为平假名,按F7转换为全角片假名,按F8转换为半角片假名,按F9转换为全角英文数字,按F10转换为半角英文数字。
10)快捷键
① 快捷键Alt + ~(Esc键下边的那个键)
可以在直接输入Direct Input(图标A)和平假名Hiragana(图标あ)间切换
② 快捷键Alt + Shift
在系统默认输入/中文输入法和日文输入法之间切换
③ 快捷键Alt +CapsLock 和Ctrl + CapsLock
输大量片假名时,在平假名Hiragana(图标あ)模式下,可以按Alt +CapsLock切换到片假名Katakana(图标カ)模式,输完按CTRL+CAPSLOCK可切回平假名Hiragana(图标あ)。
建学の精神(校訓、理念、学是)
沿革から、産業界の指導者を育成するという建学理念を持つ。19世紀イギリスの論客トーマス・カーライルの著作『過去と現在』("Past and present") から採られた言葉「キャプテンズ・オブ・インダストリー (Captains of Industry)」[3] という言葉は一橋大学における事実上の校是となっている。
教育および研究
少人数教育
一橋大学では少人数教育を重視している[4]。
全学部の入学定員の合計は1学年950人強[5]。1875年開設以来の卒業生の数は7万人程度と比較的少ない[6]。
現在でも、あまり規模が大きくない大学であるが、1980年以前頃までは、さらに少ない学生数であった。戦前の学生数は大学本科1学年280名前後、大学予科1学年200名前後、付属専門部1学年200名前後、商業教員養成所1学年35名前後であり、大学本科全体で合わせて700人から1,000人程度、学園全体で2,400人程度であった[7][8]。
戦後は付属大学予科や付属専門部を吸収して拡張し、1学年440名(1959年)から490名(1963年)程度に増加した[9][10]。他の国立大学文系学部と同様に団塊世代が大学に進学する1965年以降大幅に定員が増え、現在では学部生1学年約950人程度となっている[11]。
ゼミナール
少人数教育における特色としては、特に必修のゼミナール制度が挙げられる。このゼミナール制度はベビーブームの時代にも教員一人に対して10人前後の学生という形態を変更しなかった。現在も10人前後でのゼミが行われている。
またこのゼミナールでは、学問だけでなく全人格的指導を行っているのも特徴であるとされる[12]。学生は3, 4学年の2年間を通じて、同じゼミに所属することとなる。課外でのレクリエーション、ゼミ合宿、卒業後の定期的な会合などが行われるゼミも多い。
学部間の壁が薄い
戦前は東京商科大学という単科大学であったこともあって、学部間の壁があまりない。そのため一般の授業については、他学部の科目を原則自由に履修することができる。さらに他学部の専攻を副専攻とすることができる副専攻プログラムや、他学部への転学部制度もある[13]。
ゼミナールについても、副ゼミナール制度などを利用することにより、他学部のゼミを履修することができる。
また学部によって、使用される建物が違うということもなく、使用されるシラバス・時間割も全学部共通のものである。1年次の語学のクラスも全学部の学生により構成され、他学部の学生と交流する機会も多い。
国際色ある教育
戦前から外国人教師を任用するなど国際色ある教育が伝統[14] で、現在500名を超える留学生が在籍しており、文部科学省の大学国際戦略本部強化事業にも採択されている。
大学に在学しながら、海外の大学に留学し、その際授業料・旅費・生活費が全額給付されるという一橋大学海外留学奨学金制度もある。また授業の一環として夏休み等に海外の大学に語学留学する講義も開講されている。
学風および特色
官学化に反する学風
産業界の指導者を育成するという建学理念があり、そして実際にも卒業生の多くが産業界で活躍し、従来官界、法曹界に進むものは多くはなかった。また1909年には東京帝国大学に統合し、東京帝国大学法科大学商科とすると決定した文部省に対し、学生、教員、同窓会が抗議、緒方竹虎、武井大助らがリーダーとなり学生が総退学決議をなし、これに折れた文部省が決定を撤回し、その結果、現在も一橋大学が存続しているという経緯がある。そこで、卒業生は「官僚等の養成を目的に設立された旧帝国大学とは違う」という考え方を持っている[15]。ただ、現在では法曹界や官界に進む卒業生も増えてきている[15]。特に法科大学院ができてからは大学の公式のプログラムにより法曹養成が行われており、公共政策大学院も設置されている。
学生の自由を重んじる
現在の大学の名称が学生の投票により決められ、また学長選において学生の投票を最後まで認めていた大学であるという事実等から関係者は「学生の自由を重んじる校風をもっている」と考えており[16]、現在でも学長選・副学長選では学生による参考投票が行われている[17]。