五十音图的平假名(ひらがな)和片假名(かたかな)都属于日语的表音符号(音节文字)。平假名是由汉字的草书简化得来的,片假名是由汉字的楷书的边旁演变而来的。
一般来说平假名是用来书写日语的单词、词组及日语里一些固有的词语(包括一般的汉字读音标注),片假名用来书写所谓的外来语。
日语中的汉字虽然是由我们中国传过去的,但日本人也根据他们自己的语言特点和实际需要,发明了平假名、片假名、还有一些连中国都没有的汉字。
日语汉字的读音分为音读和训读两种。“音读”模仿汉字的读音,按照这个汉字从中国传入日本时的读音来发音。根据汉字传入的时代和来源地的不同,大致可以分为“唐音”、“宋音”和“吴音”等几种。训读就相差甚远了,这是日本人自己发明的读音法。
日语的汉字在什么场合,必须发什么样的音,要以五十音图的平假名或者片假名为汉字标注读音。而片假名主要是用来标注日语的外来语的读音的。
为了方便人们阅读,不至于造成视觉上的混淆而表达不了语意,才发明了平假名、片假名、汉字,才有了它们之间的区别。
在写法上,主要是是要一一对应着一个一个背的,这是最基本的东西了,就好像英语的26个字母一般。平假名和片假名本身没有意思。只有假名的组合成单词才具有含义,平假名用于常用的标准的日语本来的单词和日语汉字的标音(相当于拼音),片假名大多用于外来语和专门用途(如广告,公共标志等)。一般来说平假名是用来书写日语词的(包括一般的汉字标注),片假名用来书写外来专有名词(所谓外来语)。

大学全体
大隈重信が明治十四年の政変による下野後に設立した東京専門学校を前身とする四年制の大学である[1]。1920年(大正9年)に日本の私立大学では慶應義塾大学などと共に最も古い段階で大学令に基づく大学となった(詳しくは旧制大学参照)。2019年時点で、10の学術院のもと13学部・25研究科(大学院)を設置している[2]。国際交流が盛んで、特にアジアからの外国人留学生が多い。
大隈重信が明治の代表的な政治家の一人であり、イギリス流の政治経済学を中心とする大学をモデルに設計されていることから政治経済学部を看板学部とし、政治経済学部を中心に政界・財界に多くの人材を輩出しているのをはじめとして、出版、新聞、文学などの分野でも多くの卒業生が活躍している。英国の教育専門誌『タイムズ・ハイアー・エデュケーション』による2017年の日本版ランキングでは、私大1位に認定された[3]。
早稲田大学は、東京専門学校時代から、文部省「特別認可学校規則」や専門学校令の特例適用、大学令による私立大学として最初期の認可などを受けてきた。政治学、法律学、文学、商学、理工学、教育学、芸術、スポーツなど様々な分野で、近代日本国家の教育・研究分野の形成をリードしてきた学校であり、上述の慶大と共に「私学の雄」と並び称され、私立大学の最高峰に位置付けられることが多い[4]。
同窓会は「稲門会」(とうもんかい)と称され、 早稲田大学校友会に登録している「登録稲門会」に限っても1300を超える団体が存在し、国内有数の学閥となっている。
建学の精神
1913年(大正2年)当時の総長大隈重信は、前身となる東京専門学校の創立30周年記念祝典において、早稲田大学教旨を宣言した。
「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を基本理念としている。
早稲田大学教旨は、高田早苗、坪内逍遥、天野為之、市島謙吉、浮田和民、松平康国などが草案を作成し、大隈重信が校閲のうえ発表した。1937年(昭和12年)に教旨の碑文が早稲田大学正門前に設置された[5]。碑文の刻字は、前島密が1915年(大正4年)に揮毫した自筆が元であり、原本は大学に保存されている[6]。
戦後(1949年)、「立憲帝国の忠良なる臣民として」の14文字は「主権在民を謳った新憲法にふさわしくない」[7]として教旨から削除されたが、正門前の「早稲田大学教旨」の碑に刻まれた語句については「思想の変遷を知る歴史的文書としてそのままに保存することがかえって記念碑の趣旨に副う」[7]として削られることはなかった。現在、石碑は正門の外側左に移設され、大学の外から誰でも自由に見られるようになっている[8]。